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コラム 2018.02.23

<西蒲区の歴史> 高橋源助の碑

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高橋源助 水路

 

越後曽根駅周辺に『高橋源助の碑』があります。

この碑にある「高橋源助」という人物をご存知でしょうか?高橋源助はこの地域にとって大切な偉業を成し遂げた人物だったのです。

 

 

■高橋源助のご先祖

 

高橋源助のご先祖はかつて武田信玄の家臣であったそうです。このご先祖は主君を失った際に越後へ移り、曽根村(西川町)で名を高橋と改めたのちに百姓として過ごしました。

その息子(初代高橋源助)はその人柄や優れた知識から村の元締めをするまでの信頼を集めた人物でした。

そんな方を父に持つのが、今回紹介する息子の高橋源助(2代目)です。

 

 

 

■高橋源助の偉業

 

高橋源助は、水の便が悪くなかなか思うような収穫量を得られない曽根の田畑に悩む村人のために自ら測量を始めました。そして苦労しながら測量したのちに、割前村(巻町)の西川から6キロの水路を開削して水を引いてくることを思い立つのです。

その旨を藩主に願い出ましたが、そのことを面白く思わない役人は様々な邪魔をして源助の計画をやめさせようとしてしまいます。

 

しかし、源助はそれにも屈せず「失敗の折には自らの首をかけて責任を取る」という約束のもとに開削を認めてもらうことに成功しました。

そこから曽根村の村人総出で努力を重ねようやく水路が完成すると、1681年(天和元年)10月9日に通水式が行われました。

 

しかしいざ水を通してみると、役人がこっそり樋管にはめた板により水が通らないようになっていたのです。計画は失敗とされ、源助はその場で打ち首となってしいます。しばらくすると、打ち首で川に沈んだ源助の首がはめ板を咥え、恐ろしい形相で樋管の先から水と共に勢い良く流れ出ました。

こうして水路が完成し、多くの村人が助かったと言われています。

源助の首は筒尻まで流れ着き、そこへ首塚が作られました。

 

源助が命をかけて水路を通したおかげで、明治二十七年の大かんばつの際にも周辺の村々で田植えができない中、曽根近郷はその災害から免れることができたそうです。

 

現在でも、その偉業をたたえた碑の近くには首塚があり、その裏には源助の墓もひっそりと佇んでいます。

現在の西川町で農業ができるのは高橋源助のおかげと言っても過言ではないかもしれませんね。

 

 

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